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加戸守行前知事ご逝去に関するコメント発表の要旨について
日時:令和2年3月24日(火曜日)16時58分~17時05分
場所:知事会議室
(知事)
今日の午前9時過ぎに、ご家族から、加戸前知事が3月21日土曜日午前8時57分に骨髄異形成症候群により、逝去されたとのご連絡をいただきました。なお、通夜・告別式につきましては、加戸前知事の強い意向によりまして、ご家族・ご親族で既に執り行われたということでございます。その上で、今こういう情勢でもありますので、加戸前知事のご意向ということで、弔問、弔電、また香典についても、控えていただけたらというのがご遺族の意向であることをまずお伝えをさせていただきたいと思います。
1月の終わりぐらいに、私自身の会にも来ていただきまして、お元気な姿でいろいろお話をしたのが、つい2カ月ほど前のことでありますから、本当に突然の訃報で、驚きで、本当にお亡くなりになられたんだろうか、正直、まだ実感が湧いていません。でも、これは受け止めなければいけないんだろうと、本当に心から哀悼の意を表させていただきたいと思います。
加戸前知事は平成11年の1月に行われた愛媛県知事選挙、大変な選挙だったと記憶しておりますが、県民に開かれた県政にするということを最大の公約に掲げられまして、当選をされました。以来12年にわたって、本当にそのとおり信念に基づいて、県民目線に立った開かれた県政への土台を作り上げられた方ではないかと思います。また、その間もいろいろなことがありました。「えひめ丸」の事故の際の非常に難しい対応、アメリカとの交渉もありましたし、こうしたことを仕切られて、また「愛と心のネットワーク」を提唱されて、支え合う、助け合うという重要性を政策面でも広く展開された方でもあります。また、懸案であった木造の新武道館の建設や県民オペラの文化事業への展開等、さらには、本当に道筋をつけていただいたのは、加戸さんと大亀前体育協会会長で「えひめ国体」の誘致に尽力いただいたこと、「愛」あるブランド産品の全国発信、森林蘇生への強い思い、ある意味では加戸前知事が嫌われ役を買って出て、市町村合併を進めたというその信念、さまざまな課題に果敢に挑戦をされ、実現をされた方でもあります。
また、個人的には、(平成11年)1月の知事選挙の3カ月後に(松山)市長選挙があったんですが、初めての市長選挙の時には、本当に苦しい戦いでしたけれども、推薦団体等がない中で、加戸前知事が一個人として自分は支援するということを表明していただき、県の仕事が終わると夕方5時半には、毎日マイクを握り続けていただいた風景は、生涯忘れることができません。その後も本当に正しいと思ったことは、果敢に進めよというような姿勢を教えていただいた方でもあります。自分にとっては恩人であり、恩師でもある方でございます。本当に心の支えを失ったような感じがしてなりません。教えられたことを決して忘れずですね、後の県政をしっかりとやれよと託された立場として、その期待に応えるように、加戸さんに全力でやることをお誓いさせていただきたいと思います。ご功績に対しまして、本当に深く敬意を表しますとともに、心からのご冥福をお祈りさせていただきたいと思います。
(愛媛新聞)
あえて挙げるとしたらだが、加戸さんが県政に遺してくれた最大のものは何だったと思うか。
(知事)
最大のものは、県民目線の開かれた県政の土台を作っていただいたこと。それがあるからこそ、さまざまな課題へ積極的に挑戦できる組織が生まれたんではないかと思いますので、本当に最大の公約であった開かれた県政を組織面で実現したということは、最大の功績ではないかなというふうに思います。
(愛媛新聞)
今朝、ご親族の方から亡くなられたとお伺いしたということだが、松山市内の病院で亡くなられたということか。
(知事)
県内。
(あいテレビ)
県として、県民葬といったようなことは。
(知事)
ご遺族の意向を尊重して、意向次第で何でも対応していきたいなと思っています。ただ、意向がまだ分かりませんので、この段階では何とも言えません。
(南海放送)
どのぐらいから体調が悪かったとか、そういった詳細は入っているのか。
(知事)
数年前に手術をされているんですね。でも、すごく気を付けられながら、さっき申し上げたように1月24日だったかな、そのときは本当にお元気でしたから、ちょっと私もその後お会いしてなかったんで、その後どういう状況だったかは分かりません。