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松山市・北条市・中島町合併10周年記念式典知事祝辞

ページID:0010967 更新日:2015年4月2日 印刷ページ表示

日時:平成27年3月8日(日曜日) 9時30分

場所:中島総合文化センター

 

 

 皆さん、おはようございます。松山市・北条市・中島町合併10周年の記念式典に当たりまして、御挨拶をさせていただきたいと思います。

 10年一昔と言いますけれども、本当にあっという間の月日の流れですね。当時は、国の方針で、財政事情から地方への支出を減らすということを一つの目的としていたのかもしれません。そうした中で、全国の市町村に対して、合併を進めるという方針が出されました。住民の皆さんは、全国どこでも、「合併によってひょっとしたら自分たちの町の名前が消えてしまうかもしれない」「その先どうなっていくのだろうか」という不安感もあって、ほとんどの人が「合併はできることならしたくない」そんな気持ちだったことは間違いないと思います。その中で、合併したところにはある意味ではアメを、合併しなかったところにはある意味ではムチを、というのが当時の国策であったわけであります。

 そして、それぞれの町でさまざまな議論がなされました。それでも、やはりそのままこの町単体で生き残っていこう、というところもありました。また、合併を選択せざるを得ないと考えた町もありました。それはそれぞれでございます。

 当時、松山市長の仕事をいただいていたのですが、松山市は編入合併によって大きくなってきた歴史があります。そうした歴史があるからこそ、他の方法がなかなか取れないという事情を抱えていましたので、松山市から合併を呼び掛けることは一切しないと、それが基本的な方針でありました。もし、住民から、厳しい選択・議論をした中で合併を望む声があがった場合には、話し合いをしよう、当時の松山市はこうした姿勢でありました。

 そんなとき、今日も出席されています、武田町長さんが来られまして、中島の未来を考えたときに合併を選択をすべきだと思うんだと、議論を始めてもらいたいというような話をいただいたんです。自分自身も随分複雑な思いでありました。本当にそれで良いのかどうか、当時は分かりませんでしたが、ただ町長さんのある言葉が自分の心を突き動かしました。「自分は中島のために全てをかける。だから、この合併さえかなったら全ての公職から身を引きます。」という発言をされました。そしてまた、当時の現職であった町議会の皆さん方も、「合併が達成したあかつきには、自分たちは一斉に引きましょう、それぐらいの気持ちで、この協議に臨むんです」というお話がございました。

 将来を見通した並々ならぬ決意を受け、これは本当に前向きな議論をしなければならないと思いました。ただ、その準備にかなり時間がかかりました。当時、大半の町民の皆さんからは、冷たいと思われたかもしれません。しかし、それは別に冷たいというわけではなく、その道の先の方が未来が開けるんじゃないかという思いがあったので、投げかけた課題が二つありました。一つは松山市がやっていなかった公共交通機関の民営化。そして、もう一つが同じく松山市が経験のない病院事業の民営化。この道筋だけをつけていただきたいということをお願いしました。道筋さえつけていただいたら、後の仕上げは新松山市の方でやっていきますと。そして、必ずプラスの方向に持っていきますというようなことで、その合意がなされたところでございます。

 当時、大きな課題がたくさんありました。中島の水の問題。船の問題。そして病院の問題。学校の統廃合。あるいは船の待合所の問題。消防・救急艇の問題。さまざまな課題がありましたけれども、それは新松山市がもし誕生したときは必ず仕上げます、という話し合いを積み上げてきました。そして、10年前、そのことに期待をしていただいて、合併の道筋が開かれていったわけであります。

 それぞれの事業にも思い入れがあります。特に学校の問題は、地域の皆さんからすれば、学校が身近なところからなくなるということはさびしいことです。そういう声も本当分かります。ただ人数が少なくなっていたので、子どもたちを中心に考えた場合には、やはり同級生や先輩・後輩が多い方が人生の宝物になるのじゃないか。そんな議論をする中で統廃合が決まりました。その代わり、どこにも負けない校舎を造りましょう。木をふんだんに使った校舎を、子どもたちの学ぶ場として提供することによって、「新しい学校楽しいな」そんな空気ができればなと、当時、大きな議論になりました。

 消防・救急艇については、愛媛県はいよいよドクターヘリコプターの導入に踏み切っていきますけれども、当時ドクターヘリを入れる余裕はありませんでしたので、それをカバーするのは救急車搭載型の消防機能を持ったフェリーが有効だろうと、同意をいただきまして、導入が図られていった経緯がございます。

 一つ一つの約束事が出来上がるたびに、住民の皆さんも納得していただけるような輪が広がっていきました。ただ、もっと大事なことは将来像であります。合併した際に各島回ったときにこんな話がありました。「もう松山市になったので、20年近く続いてきたトライアスロンはやめようと思う」これが実行委員会の方々の当時の声でありました。「もうやっていけない」「無理だよ」ということだったんですが、「いやいや新松山市になったからには、皆さんになってよかったなと思っていただけるように頑張る、だから、それだけの歴史がある大会は後押しをしっかりするので、もっと大きくしましょう、前向きに考えましょう」そんな議論があったことを思い起こします。今では本当に素晴らしい大会として、約30回を数えるに至るわけでありますけれども、これは島の皆様の努力のたまものであると言っても過言ではないと思います。

 また、もう一つは、「島が合併して、中島の名前も消えて一次産業しかない、もうだめだ」そうした声も当時よく聞きました。そんなことありませんよ、本島、野忽那島、睦月島、怒和島、津和地島、二神島など、それぞれ魅力が違って、素晴らしい歴史もあるじゃないですか。それこそが宝物なんだと、それを信じましょうということで、島博覧会というものを呼び掛けさせてもらいました。ただ、これは主役が島民の皆さんでなければうまくいきません。だから、もし皆さんが立ち上がるのであればやりましょう。行政がやるんだったら、うまくいかないのでやりません。そんな極論の話もさせていただきました。そのうち、住民主体のまちづくり研究会が立ち上がり、やってみようかという空気の輪が広がり、そしてプレ大会を含めて、「しまはく」へと結び付いていったわけであります。

 「しまはく」のオープニングは決して忘れることができません。朝8時ごろに行ったら、各島の皆さんが、島の特産物を持ち込んで、そして子どもたちが島の郷土芸能を披露する、そんなオープニングでありましたけれども、朝8時の表情は、「当たり前の物を持ってきてるんやけど、売れるんやろうか」「みんな感心を持ってくれるんやろうか」不安そうな表情を浮かべられていました。しかし、オープンしてから、あっという間に物が売れていきます。午後3時までやる予定だったんですけれども、島の皆さん、本当に奥ゆかしくて、あまり持ってきていないんですよ。午後1時の時点で全部売り切れてしまって2時間できなくなっちゃったんですね。でもそこには、朝の不安そうな顔の表情は一切なくなって、「これ、やれるよ。こういうものに振り向いてくれるんだ。」皆さんの顔が笑顔に変わっていったことは、感動的な市長時代の思い出の一つでございます。その体験がなければ、昨年の「しまのわ」には結び付いていかなかったと思います。

 今、愛媛県知事の仕事をいただいていますけれども、愛媛県にはいろんな島があります。中島の体験があればこそ、各島へ行って、実は中島でこういうことがあったんです、諦めずにやれば、これだけの人が振り向いてくれたんです。中島の皆さんは、ここよりももっとハンディキャップがあるのに頑張りましたよ、そういう話を各島でしてきました。そのうち、島全体でやろうという空気が広がり、さらには広島にまで声をかけて、「瀬戸内しまのわ2014」へと結び付いていきました。中島でも、べにふうき茶を活用した新しい取り組みや、そしてまた、サイクリングを活用した観光振興、こういったものも生まれ始めています。

 島には、島に住んでいない人が感動するような物語、そして魅力が満載です。だから、これからも、ぜひ自信を持って、前を向いて歩んで行っていただけたらと思います。これから、全国どこでも少子高齢化・過疎化、これはもう共通の課題であります。日本の人口全体が減ってしまうわけであります。だからと言って、そこで下を向いても始まりません。その条件の中で何ができるかを常に考えて、中島の可能性を大いに磨いて歩んでいただきたいと思います。

 これからも、愛媛県の立場で中島のことを忘れずに、また、島のことを忘れずに全力で仕事に邁進してまいりますので、10周年を機に、旧中島町、現在の松山市の中島地域がさらに発展していくことを心から期待いたしまして、挨拶とさせていただきます。

 10周年おめでとうございました。


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